銭湯の湯船で一息いれるとき、そこにはいつも、壁一面に描かれた富士の絵がある。
“いい湯だな”には”いい絵だな”が欠かせない。そんな日本のお風呂文化を支えるのが「銭湯絵師」だ。
銭湯絵師は、文字通り銭湯の絵を描く背景絵師(ペンキ絵師)たちのことをいう。現在、その数は銭湯の減少とともに減り、日本には三人が残るのみとなってしまった。
その中の一人が、丸山清人(まるやま きよと)さん。18歳で銭湯絵の世界に入ってから65年、銭湯に訪れる人々を絵で癒し続けてきた、日本最年長の銭湯絵師だ。
そんな丸山さんの絵師生活の中で、昨年はじめての弟子ができた。
弟子入りしたのは勝海麻衣(かつみ まい)さん。日本最高の美術大学である東京藝術大学に在籍する一方で、ファッションモデルとしても活躍するアーティストだ。
友人から「武士」と呼ばれるように、現役藝大生、そしてモデルという肩書きからは想像できないほど、活発で礼儀正しい、むしろ体育会系の印象を受けた。また丸山さんも、いわゆる職人のイメージとは異なる、物腰の柔らかい方だった。
そんな想像もつかないような組み合わせの二人が、「師匠」と「弟子」という関係となったことは、大きな話題となった。勝海さんが丸山さんに弟子入りしてから、今年の9月で1年が経った。
「これまで弟子をとったことがなかった」という日本最年長銭湯絵師の丸山さんと、「小学生のころから銭湯に憧れていた」という新弟子の勝海さんのお二人に、師弟で語りあってもらった。
師匠と弟子のこと、銭湯絵のこと、これからのこと。
弟子をとらなかった65年、なぜいま弟子をとった?
――勝海さんに会ったときの印象はどんなものでしたか?
丸山 すごく美人なお嬢さんでさ、モデルさんをやってるっていうしね。びっくりしたよ。
勝海 あのときは普通にワンピースで行ったんです。本当にやる気あんのって思われても仕方なかったというか。
丸山 そのときに自分の絵を持ってきてたんだよね。それをうちのかみさんとみてたら、二度びっくりでさ。「これはどうみても本物だ」って。
勝海 ありがとうございます……。
――これまでお弟子さんはとらなかったんですよね。それはなぜですか?
丸山 そもそも弟子になりたいって人もいなかったんだよ。だから私も一人でやってたんだけど。
――最近では、若い方を中心に銭湯人気が再燃していますよね。
丸山 あちこちでイベントに呼ばれるし、盛り上がっているのは感じるよ。なかなかいいことだと思います。最近は取材が次から次にあるしね。喋るのは苦手だから大変だけど(笑)。
丸山 これまでは銭湯も銭湯絵師も、ずっと廃業、また廃業でさ。ほんと下火になっていったんだよ。
1964年の東京オリンピックくらいまでは、本当にお風呂屋さんがたくさんあった。当時は家にお風呂がないのが当たり前で、お客さんも1日に500人以上なんてざらだったんだから。だから本当に忙しかった。日曜日以外は毎日描いてて、4月から12月まで、ほとんど休みなし。
――そんなに! 今では家にあるのが当たり前なので驚きです。
丸山 でしょう? 昔は東京で2600件くらい銭湯があったものだけど、今は520件くらい。そのうち3分の1以上は銭湯絵がないんですよ。広告もほとんど入ってないしね。
昔は銭湯絵の下に、商店街や散髪屋、蕎麦屋だったりの看板が入っていた。私たちは浴場専門の広告会社だったから、掲載してもらう見返りに、絵を無料で描いてたんだよね。
▲東京オリンピックのあった1964年、丸山さんは当時29歳。中島盛夫さんと組み、銭湯絵師としてもっとも忙しかった時代だった
――丸山さんの叔父さんが経営する広告会社で銭湯絵師としてスタートされたんですよね。
丸山 そうそう。浴場専門の広告会社だったんだけど、師匠が私の叔父さんで、そこで修行してから独立した。昔から絵を描くことが好きだったから、自然に入ってたね。そのまま60年以上が過ぎちゃった。
日本に3人いるうちの銭湯絵師で中島(※)というのがいて、彼は同じ会社に入ってきて兄弟弟子なの。当時は彼とずっと二人でコンビ組んで銭湯絵を描いてたよ。
※中島盛夫さん。「現代の名工」にも選ばれる、日本を代表する銭湯絵師の一人
▲富士山が銭湯絵の花形となったのは、富士山が世界遺産となった以降なのだそう
勝海 お二人でやってたときは、どっちが富士山を描くか決めてたんですか?
丸山 中島が助手だったから、私が富士山を描いて、中島が空を描いていたかな。
勝海 中島さんが私と同じように空を塗ってたんですね! すごく不思議な気持ちになります。
丸山 ははは。私も修行時代はひたすら空ばかり描いてたよ。
――当時のことで丸山さんにとって印象的な出来事はありますか?
丸山 それがね、よく聞かれるんだけど、記憶に残ってる仕事とかは全然覚えてないんだよ(笑)。黙々と、淡々とだよ。ペンキを湯船に落っことしたとか、銭湯屋の主人に怒られたとかはあったけどね。
丸山 当時はお風呂屋さんの親父さんは威勢がよかったから、よく怒られたよ(笑)。私らは銭湯にアポを取らずに絵を描きに行くわけ。だいたいどのくらいで描き替えが必要になるかわかるから、その時期になったらいきなり描きに行ったりしてたから。
勝海 それはすごいですね(笑)。
丸山 それを考えると、今はだいぶ様変わりしたねぇ。
――そういった状況の変化があるなかで、勝海さんのような若い方が銭湯絵を学びたいと伝えられたとき、どんな気持ちだったんですか?
丸山 本当はやめたほうがいいとは思ったんだけど、長年の知り合いに頼まれたし、会ってみたらあまりに熱心だからさ。ちょっと教えてみようかなって。
それに、技術だけでも残したいという思いがあった。銭湯絵ってのがこれまた特殊な技術で、普通の絵師にはかけないんですよ。
――というと?
丸山 グラデーション、ぼかし、色使い、構図と技術的なところはたくさんあるんだけど、あまり描き込みすぎてもよくなくて、シンプルなものにしないといけないのが難しい。お風呂場さんで絵が暗くてもリラックスできないでしょ?
丸山 銭湯絵は水色と緑がベース。少ない色で繊細にかき分けて、飽きない絵を書かなきゃいけない。これが難しいんだ。私も弟子入りして自分だけで描くようになるまでは3、4年はかかったね。
「先生」と「師匠」の違い
――弟子入りしてからの1年は、勝海さんにとってどのようなものでしたか?
勝海 こんなに充実した1年はなかったです。想像していた以上に楽しくて、丸山さんの間近で仕事を見れる幸せを噛み締めながら現場に入ってます。
勝海 師匠はやっぱり描かれてるときが一番かっこいいんですよ。こんな風になりたいなって思いながらいつも作業しています。
とにかく描くスピードが速いんです。こんなに速く描くんだ、と。以前、1枚を3時間半、男湯と女湯で合わせて8時間くらいで描いたことがあって、本当に驚きました。
丸山 あのときはさすがに時間がなくて焦ったけどね(笑)。
勝海 大きい絵を基礎として先に学んでおこうと思って、大学で舞台背景などを描いてましたし、ペンキの扱い方や写実的な技術もやってきたつもりでした。でも、現場に入って「ちょっとわかった気になっていただけだな」って思いました。師匠の表現の仕方もそうです。
――丸山さんは、銭湯絵を描くときに自身の個性や表現をどのように出しているんですか?
丸山 自分の個性とかは、そこまで考えないんだよ。なんせ昔は毎日毎日営業前に描いてたからとにかくスピードが命。その時々で一生懸命やるってだけだよ。特別な気持ちで仕事はしない。
丸山 やっぱり気分の悪い時はやっぱり作品も良くないんだよ。仕事に出かけるときに母ちゃんとケンカして、むしゃくしゃして出て来たときは線も歪んでる気がするんだよ。
勝海 (笑)。私は師匠の銭湯絵はすぐわかります。おおらかさと、繊細ながらダイナミックなところ。そういった人柄や姿勢が絵に出ていると思うんです。
丸山 へへへ。そう言ってもらえると嬉しいね。
勝海 私はまさに、そういう技術的なところ以外で刺激を受ける部分が大きかったんです。
丸山 そうなの?
勝海 私はもともと「職人」に憧れていた部分があるので、師匠のところには、最初は技術を学ぶつもりで来たんです。でも、今は技術だけではなく表現者としてのあり方を教わっています。
勝海 私は結構がさつで、パレットを重ねちゃったり、筆を乱雑に置いたり、ブルーシートを敷けば汚してもいいやっていう性格なんです。師匠は作品ももちろんそうですし、完成に到るまでが本当に綺麗で、こんなにも違うんだって気付かされます。自分に技術があると、ちょっと自惚れてたのかもしれないですね。
勝海 作業の途中に休憩の時間があるんですけど、私は自分で描いている銭湯絵をみながら煙草を吸っている師匠の姿が好きなんです。隣で座ってると、「あそこはこうすればよかった」って小さな声で呟いてるんです。師匠はいつも「そこそこできたな」って。
丸山 私は銭湯絵師なんだけど、銭湯にはあまり行かないのね。それはさ、恥ずかしいの。本当は見た人がどんなことを言ってるか聞きたいんだけど、ちょっと照れ臭いし、自分の絵のアラに気づいちゃうから嫌でさ。
――常に自分の絵に納得をしていない、と。
勝海 そうみたいです。作業中にも一切ご飯を食べないんです。
丸山 仕事してるときは食欲がなくなっちゃうんだよね。それだけ神経使っちゃってるのかね。帰るときに急にお腹が減るんだけど。
勝海 これだけ長くやっていても、「もっと良くしたい」という向上心を常に持ってらっしゃるんです。そういう感覚がすべて仕事に繋がっている。そこから始まるんだなって。
綺麗なものには、その前の段階からやるから説得力が出る。それは学校の「先生」ではなく「師匠」だったから、気づけたんだと思うんです。
編集者・ライター/ひとを前進させるカルチャーの根っこと端っこを探したいと思っています。好きな銭湯は下北沢の石川湯と京都のトロン温泉、桜湯尊敬する人はHi-STANDARDの横山健さん。
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